Okanogan, Washington
December 1, 2014
松浦栄という写真家がいた。
1901年、28歳で単身アメリカに渡り、ワシントン州の奥地で写真を撮り続け、39歳で死んだ。その人柄から、現地の人々から「フランク・マツーラ」と呼ばれ、親しまれていた。
ワシントン州はアメリカの北西に位置しており、形は横長の長方形で、北西にシアトルがある。北でカナダに接していることからもわかるように、緑の豊かな土地が多い。
シアトルからインターステート90を東へ。クレエラムから州道970へ入り、すぐに国道97号線へ。ぐねぐねした山道をしばらくやり過ごし、ペシャスティンから国道2号線を東へ。州道20号線に突き当たったら北へ曲がり、コロンビア川を左に見ながらしばらくするとフランク・マツーラがかつて住んでいた町、オカノガンが見えてくる。
寄り道しなければたった4時間ほどのドライブだ。
オカノガン周辺は大都市から離れているせいか、50年ほど人口に動きのない町が多い。住民の出入りも少ないので、町並みが落ち着いていて、古き良きアメリカを至る所に感じることができる。
そんな場所に、フランク・マツーラは一人で日本からやってきた。
日本で写真を勉強し、可能性を感じた彼は単身シアトルへ渡る。その後アラスカで1年を過ごした後、再度シアトルへ戻り、新聞に載っていたホテルの求人広告を見つけ、オカノガンから北 西にあるコンコヌーリィという町にやってきた。
なぜ彼がシアトルから縁もゆかりもない町へ向かったのか、その理由について、同じく写真家の栗原達男は、その著書でこう書いている。
アラスカの1年(と思われる)もシアトルでの1年も、周囲は日本人であった。松浦栄は1,2年はそれに耐えたものの、日本を発つときすでに「日本人のいないアメリカ」に入って行きたい、という夢があったと思う。普通のアメリカ人と語り合い、彼らの姿をカメラにおさめたい―という欲求である。
「フランクと呼ばれた男」
栗原達男 著
情報センター出版局/1993/05
オカノガンの風景は、典型的なアメリカの町、という趣で、ジェネラルストア、ガソリンスタンド、ダイナーが並び立ち、周囲には山も川も湖もある。そして住民の平均所得もごく普通で、ネイティブ・アメリカンとヒスパニックも一定数住んでいる。
ツイン・ピークスを思い浮かべるといいかもしれない。まさにあのような感じだ。
マツーラが、カリフォルニアのフロンティアや東部の発展した町ではなく、オカノガンを選んだのは、偶然とはいえ、両者にとってとても幸運な出来事だったのかもしれない。
※ちなみにツイン・ピークスのロケ地になったスノコルミーは、シアトルからの道中、気軽に立ち寄れる位置にある。
1913年6月16日深夜、マツーラは路上で血を吐いて死んだ。最後に葬儀の様子を引用する。
オカノガン峡谷の人たちは、白人もインディアンも、みなフランク・マツーラの死を悲しんだ。葬儀は300人を超える人々が集まり、教会では収容できず会場を公民会へ移した。
モーゼス・ジョージの父、チーフのラホム・コケイ・ジョージ(注:地元のインディアン部族の酋長)もチヌーク語で弔事を読んだ。
「遠方の地より来て我らの友となったあなたへの愛情は計り知れない、神があなたを安楽の地へと連れ去り、永遠の旅に出てしまった今、アハイホヤ!さようなら」
「フランクと呼ばれた男」
栗原達男 著
情報センター出版局/1993/05